天野屋利兵衛と天野屋傳兵衛(仮説)
天野修一
「天野屋利兵衛 」(あまのやりへえ、寛文1年(1661年) 8月6日~
享保18年(1733年)
9月13日)は、赤穂藩お出入りの大阪商人で、商人ながら義に厚く、吉良邸討ち入りの支
援をしたとされる人物である。「天野屋利兵衛は男でござる」という有名な名せりふがあり、
忠臣蔵の裏の部分ではなくてはならない存在である。学校の先生からも天野屋と名のるとよ
くこの台詞を言われたことがある。実在の人物らしいが赤穂藩とのつながりは実際のところ
は確認されていないのが本当のようで、「天野屋伝兵衛」を調べていて、この名前が利兵衛
と一字違いであることから、ある仮説を立ててみた。
「天野屋利兵衛」(あまのやりへえ)、名は「直之(なおゆき)」といいます。
元禄時代の大阪の商人に天野屋利兵衛は確かに存在していた。しかし天野屋がお出入りに
なっていたのは熊本藩細川家と岡山藩池田家の大阪屋敷だけである。元禄3年(1670年)の「平
野町宗旨改帳」に天野屋利兵衛は北組惣年寄となっているのが確認できる。また元禄7年には
天野屋の通しの称である「九郎兵衛」を襲名しており、これ以降は天野屋利兵衛ではなく
天野屋九郎兵衛になっていた(元禄14年の赤穂事件の際にも)。元禄8年になると遠慮を申
し渡されており、このときに惣年寄も解任されたようだ。のちに「松永土斎」と称し、
享保18年 (1733年)8月6日に死去したとされている。享年73歳であった。
実際、京都の昆陽山地蔵院椿寺に墓がある。
このように赤穂藩とは何の関係も見出せない人物であるが、吉良邸討ち入り後、かなり早
い時点から赤穂義士を支援していた義商として英雄化された。吉良邸討ち入り直後に書かれ
た加賀藩前田家家臣、杉本義隣の「赤穂鐘秀記」においても「大阪の商人天野屋次郎左衛門、
赤穂義士たちのために槍20本つくったかどで捕縛され、討ち入り後に自白した」などと書
かれている。赤穂浪士切腹から六年後に津山藩士小川忠右衛門によって書かれた「忠誠後鑑
録或説」の中にも「大阪の惣年寄の天野屋理兵衛が槍数十本をつくって町奉行松野河内守助義
により捕縛され使用目的を自白させるために拷問にかけられたが、答えず、討ち入りが成功
した後にようやく自白した」などと書かれている。その後、これを起源として各書に伝播し
ていき、人気の芝居『仮名手本忠臣蔵』の中にもこの話が採用されたため、完全に定説化し
たという流れのようだ。 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
と書かれてあった。ここで、加賀藩前田家家臣、杉本義隣の「赤穂鐘秀記」が忠臣蔵の最初
であるとしたとき、槍20本つくった御用商人「天野屋次郎左衛門」の名の存在が気になる
のである。
加賀藩前田家の家臣が、赤穂の事件を知った時、詳しい内容(情報の入手先)が必要ではな
いだろうか。それが或いは高岡の「天野屋三郎左衛門」をもじって登場させたのではなかっ
たかということである。
加賀藩御用商人でもあった高岡の天野屋は、前田利家に使え、利長が高岡に町を築かれた
時に町人となった人物で、代々高岡の町年寄を勤めている高岡由緒町人筆頭で、新年拝賀に
は金沢へ登城する家柄であった。当然家臣である杉本義隣もこのことは知っていたものと思
われる。天野屋の名前はもしかしたら、ここから生まれたとも考えられなくもない。
実際に赤穂義士を影で、支援した人物がいたことは事実として、歴史には真実と装飾された
部分があるのはないだろうか。
もうひとつの情報の出所としての考えられることがある、「服部南郭」という人物である。
「服部南郭」(はっとりなんかく)(天和3年9月24日(1683年)~宝暦9年(1759年)6月21日は、
二代目「天野屋傳兵衛三郎左衛門正知」の孫で、荻生徂徠の高弟として知られ、江戸時代中
期の日本を代表する儒者、漢詩人、画家であったと伝えています。
名は元喬(げんきょう)、通称は幸八(こうはち)、のちに小右衛門(しょうえもん)、
字を子遷(しせん)、号は芙蓉館(ふようかん)、画号に周雪(しゅうせつ)、
観翁(かんおう)など、中国風に服南郭、服元喬、服子遷と名乗ることもあった。
父の元矩(もとちか)は
豊かな家庭に育ち、歌や絵の手ほどき以外にも「四書」や「三体詩」などを教えられる。1
3歳のとき、父を亡くすと縁故を頼り江戸に下る。17歳の頃、甲府藩主 柳沢侯に歌と画
業を認められ、これより18年間仕えることとなる。
柳沢家には多くの優れた学者(細井広沢、志村禎幹、荻生徂徠、鞍岡蘇山、渡辺幹など)が
仕えていたが、このうち荻生徂徠を慕い、やがて漢学に転向する。柳沢吉保が死去して4年
後の享保3年(1718年)、跡を継いだ柳沢吉里に疎んぜられ職を退く。
南郭は不忍池の畔に居を構え、塾を開くが、ここを芙蓉館と呼んだ。徂徠の学派の双璧と
された「南郭」の門には多数の門人が列をなし、大変盛んだった。
南郭は温順な性格であり、十数年来の友 高野蘭亭は南郭が人と争うことを見たことがなく、
人の悪口を言ったことがなく、さらには怒ったり、喜んだりしたことさえ見たことがないと
伝えている。養子の元雄(服部白貴)は、南郭が家族に対しても自らの履歴を隠し誕生日さ
え伝えてこなかったと墓誌銘に寄せている。
享年77歳。東海寺(
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
つまり「服部南郭」は「赤穂浪士」で、将軍綱吉に仕えた渦中の人、老中の「柳沢吉保」に
一番近いところにいたことになります。加賀藩の家臣が何かしらでその情報を知りえたかということを考えた
時、参勤交代などで、江戸に出ていた家臣、杉本義隣か取巻きの人が、「服部南郭」と親交があった。
そして事件後老中「柳沢吉保」は当然、実況検分、或いは背後関係について調査を行っていたとするなら
ば、その取り巻きの人たち、或いは当時のうわさなどを一番近い距離で知り得た「服部南郭」
あたりが情報源ではないかということです。
天野屋の一族は、延宝初年(1673年)頃、何人もの一族が京都などに移り住んで商き
ないをしており、「天野屋三郎左衛門」自身が、関西方面の情報源として前田家、家臣「杉
本義隣」と親交があり、話をしている中から、「天野屋次郎左衛門」なる人物を武器ご用達
張本人として登場させ、後からになって世間がつじつまを合わせた。のではないだろうか。
そして「天野屋次郎左衛門」では語呂が悪く、或いは何らかの話が伝わる過程の中で、
特に「仮名手本忠臣蔵」が書かれたとき「天野屋利兵衛」なる人物が生まれた、いわゆる
後付けの人物ではないだろうかということである。
テレビドラマ「水戸黄門」などでも、話の内容の多くは作り話であると思う,が、ある程度
歴史に忠実でならないとおかしい。そんな中で、歴史的に実在した名前などよく使われたり
するし、時代背景なども考慮しなければ話がややこしくなる。
物語の中には天野屋あるいは傳兵衛などが登場人物としてでてくることには気がついてい
たが、歴史の中で実際にいた人物、環境を色々仮定して、実際の「忠臣蔵」の話が出来てき
たのではないだろうか。
四十七士「寺坂吉右衛門信行 」という人
自分がもし、「大石内蔵助」であったとき当然、生き証人をおいたと思う。
それが「四十七士」最後に出てくる「寺坂吉右衛門信行 」(てらさかきちえもんのぶゆき)
である。足軽の「寺坂吉右衛門信行 」(てらさかきちえもんのぶゆき)、(吉田忠左衛門の
足軽、3両2分2人扶持。足軽では唯一の参加者)は、討ち入り後に一行から立ち退いてい
るとされている人物である。
「寺坂吉右衛門信行 」は討ち入り時は39歳。事件後に幾つかの家に仕えた後、最期は江戸
にて享年83歳で亡くなっている。
この男全国を安行する中、高岡の私が住んでいる、「川巴良諏訪神社にたち寄り、近くの
石に腰を下ろし煙草をふかして語った」ということが川巴良諏訪神社の境内看板に書いてあ
る。
これも果たして真実なのだろうか。或いは語った人物がいたとして、実際本人であったか
などは不明である。