天野屋利兵衛と天野屋傳兵衛

(高岡町由緒町人の家督名)

                           天野修一

「天野屋利兵衛」は、多くの方がご存知のいわゆる「赤穂浪士」に出てくる、大阪の商人で、

吉良邸討ち入りの際、赤穂義士を支援をしたとされる人物である。「天野屋利兵衛は男でご

ざる」とは余りにも有名なせりふであるが、歴史の史実からすればフィクションの部分とし

て歴史の研究家からすれば、定説となっている部分である。

 この話が有名になった背景には、近松門左衛門が書いた「仮名手本忠臣蔵」が話として、

有名になり、人形浄瑠璃や文楽で上演され長く親しまれてきた。

もともとこの話は、赤穂事件を題材にしたものだが、時代背景を室町時代の軍記「太平記」

に置き換え、大胆に脚色を加えられて創作されてきた物語であって、史実と脚色された部分

が入り混じって完成された。

 しかし時代の人々の空想力と真実の探求は、色々なところで伝説を生み出した。

「仮名手本忠臣蔵」では、「天野屋利兵衛」は十段目に「天河屋義平」という名前で登場する。

密かに討ち入りの道具をそろえる堺の商人「天河屋義平」に対して、大石内蔵助なる大星由

良之助が偽りの捕り手を踏み込ませ、義平の真意を探るという話の筋書きだが、討ち入りの

クライマックスを迎える前段階として、なくてはならない話の部分となっている。

 

さて実際のところ、いわゆる史実に基づく「天野屋利兵衛」は、存在しなかったのかという

と、京都の昆陽山地蔵院椿寺に墓がある。

「天野屋利兵衛(あまのやりへえ、寛文1(1661) 8月6享保18年(1733

9月13日)名は「直之(なおゆき)」という。

元禄時代の大阪の商人に天野屋利兵衛は確かに存在していた。しかし天野屋がお出入りに

なっていたのは熊本藩細川家と岡山藩池田家の大阪屋敷だけである。元禄3(1670)の「平

野町宗旨改帳」に天野屋利兵衛は北組惣年寄となっているのが確認できる。また元禄7年には

天野屋の通しの称である「九郎兵衛」を襲名しており、これ以降は天野屋利兵衛ではなく

天野屋九郎兵衛になっていた(元禄14年の赤穂事件の際にも)。何かこの頃につまらぬ事件

をおこし、そのことで、元禄8年に「遠慮」処分を申し渡されており、このときに惣年寄も

解任された。このことがなお憶測を呼んだ。のちに「松永土斎」と称し、享保18 (1733)

86日に死去した。享年73歳であった。

 

実は、あとになってモデルとされる人物も別にあったことが分かった。名前を「綿屋善右

衛門好時」(わたやぜんえもんよしとき)である。京都上京区に住み、大名家に呉服御用達

をしながら金融業も兼ねていた。「俗説忠臣蔵」では、天野屋は武器の調達をしているが、

こちらのほうはもっぱら資金面での援助をしたとされる人物である。

 善衛門は、自分の菩提寺の庵に大石内蔵助の母、「お玖麻」(おくま)を住まわせている。

この寺「聖光寺」にお玖麻の墓も善右衛門の墓もある。(忠臣蔵四十七義士 全名鑑、()

中央義士会監修より)

 

わたしの先祖は、古くから富山県高岡市に在住し、現在は「天野屋」の名前で小さな商売を

営んでいる。中学時代の先生からも何かと「天野屋利兵衛は男でござる」という有名な台詞

を持ち出されたことがあったが、そんなことから実際のところはどうなんだと少し興味もあ

ったので、今回調べてみて或いはという部分で分かったことがあるので、少しまとめてみた

これは全くありえない話と思われてもしょうがないが、ある意味「天野屋利兵衛」はフィク

ションの部分であるとされるならば、私の言い分もまた軽く聞き流していただきたい。

 

「天野屋利兵衛」は、このように赤穂藩とは何の関係も見出せない人物であったが、吉良邸

討ち入り後、かなり早い時点から赤穂義士を支援していた義商として上方では英雄化されて

いたようだ。 赤穂事件を一番早く伝えたのは、いわゆる「かわらばん」といわれるもので

あって、現代の新聞やメディアのごとく詳しく報道されたのではないので、当時の人達にと

っては、かなりの部分が憶測で判断していたことが想像されるのである。

 

吉良邸討ち入り直後に最初に書かれた赤穂事件を題材にした書物があった。それが誰によ

って書かれたかを知った時、何故ということと、もしかしてと思ったのは、自分だけかもし

れない。

 

その書物を「赤穂鐘秀記」(あこうしゅうしょうき)といい、原文は京都大学が保存してい

て、前文インターネットでも公開されていた。この作者は実は加賀藩前田家の家臣である

杉本義隣(よしちか)という人によって書かれていたので、或いはと思ったのである。

赤穂鐘秀記」の中では、「大阪の商人天野屋次郎左衛門、赤穂義士たちのために槍20本つく

ったかどで捕縛され、討ち入り後に自白した」などと書かれている。

 

その後、赤穂浪士切腹から六年後に津山藩士小川忠右衛門によって書かれた「忠誠後鑑録或

説」の中にも「大阪の惣年寄の天野屋理兵衛が槍数十本をつくって町奉行松野河内守助義によ

り捕縛され使用目的を自白させるために拷問にかけられたが、答えず、討ち入りが成功した

後にようやく自白した」などと書かれている。

その後、これを起源として各書に伝播していき、人気の芝居『仮名手本忠臣蔵』の中にも

この話が採用されたため、完全に定説化したというのが「天野屋利兵衛」誕生の流れのようだ。 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 

ここで、加賀藩前田家家臣、杉本義隣の「赤穂鐘秀記」が忠臣蔵の最初であるとしたとき、

20本つくった御用商人「天野屋次郎左衛門」がどこから出てきたのかということである。

杉本義隣が情報として知っていた部分なのか、或いは本人が話の流れとして、勝手に登場さ

せたかどうかが問われるところとなるのである。

 

またもう一つ自分として謎が残ることは、何故ゆえに加賀藩前田家の家臣が、赤穂の事件

の詳細について知り得たかという疑問である。おそらく江戸庶民の津々浦々まで、この話題

で持ちきりであったことは想像されるが、詳しい内容(情報の入手先)がもしかして、あっ

たのではないか。それがこれから説明する「天野屋伝兵衛」のことである。

 

 

それが或いは高岡の「天野屋三郎左衛門」をもじって登場させたのではなかったか。

 加賀藩御用商人でもあった高岡の天野屋は、前田利家に仕え、利長が高岡に町を築かれた

時に町人となった人物で、代々高岡の町年寄を勤めている高岡由緒町人筆頭で、新年拝賀に

は金沢へ登城する家柄であった。当然家臣である杉本義隣もこのことは知っていたものと思

われる。天野屋の名前はもしかしたら、ここから生まれたとも考えられなくもない。

実際に赤穂義士を影で、支援した人物がいたことは事実として、歴史には真実と装飾された

部分があるのはないだろうか。

 

 

 

もうひとつの情報の出所としての考えられることがある、服部南郭」という人物である。

「服部南郭」(はっとりなんかく)(天和3年9月24日(1683年)~宝暦9年(1759年)6月21日は、

(画像: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

二代目「天野屋傳兵衛三郎左衛門正知の孫で、荻生徂徠の高弟として知られ、江戸時代中

期の日本を代表する儒者、漢詩人、画家であったと伝えている。

 

名は元喬(もとちか)、通称は幸八(こうはち)、のちに小右衛門(しょうえもん)、

字を子遷(しせん)、号は芙蓉館(ふようかん)、画号に周雪(しゅうせつ)、

観翁(かんおう)など、中国風に服南郭、服元喬、服子遷と名乗ることもあった。

父の元矩(もとちか)は北村季吟に師事したこともあり、南郭は和歌や連歌など文雅の教養

豊かな家庭に育ち、歌や絵の手ほどき以外にも「四書」や「三体詩」などを教えられる。1

3歳のとき、父を亡くすと縁故を頼り江戸に下る。17歳の頃、甲府藩主 柳沢侯に歌と画

業を認められ、これより18年間仕える。

柳沢家には多くの優れた学者(細井広沢、志村禎幹、荻生徂徠、鞍岡蘇山、渡辺幹など)が

仕えていたが、このうち荻生徂徠を慕い、やがて漢学に転向する。柳沢吉保が死去して4年

後の享保3年(1718年)、跡を継いだ柳沢吉里に疎んぜられ職を退く。

 南郭は不忍池の畔に居を構え、塾を開くが、ここを芙蓉館と呼んだ。徂徠の学派の双璧と

された「南郭」の門には多数の門人が列をなし、大変盛んだった。

南郭は温順な性格であり、十数年来の友 高野蘭亭は南郭が人と争うことを見たことがなく、

人の悪口を言ったことがなく、さらには怒ったり、喜んだりしたことさえ見たことがないと

伝えている。養子の元雄(服部白貴)は、南郭が家族に対しても自らの履歴を隠し誕生日さ

え伝えてこなかったと墓誌銘に寄せている。

享年77歳。東海寺(東京都品川区)に墓がある。

          出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 

             服部南郭なる人物に関して

つまり服部南郭」「赤穂浪士」で、将軍綱吉に仕えた渦中の人、老中の「柳沢吉保

一番近いところにいたことになる。このことは、余り語られていない。そして、赤穂浪士46人の審判に大きな

影響を与えたとされる「荻生徂徠」は南郭の師匠である。充分な情報がもたらされていた背景

がある。服部南郭の研究の第一人者である今は亡き京都大学名誉教授の日野龍夫氏「服部南郭伝

巧」によると、一生彼は、「出自を語らず。」から始まる。その理由として、学問に没頭する為にあらゆる先入

知識から解放されたいとの想いからだと伝えている。しかしながら、「生まれは、京都である。」くらいは言えた

としても特に問題はないのであろうが、取り分け高岡にある前田家ゆかりの由緒町人筆頭「天野屋」の孫

であるなど、おそらく誰にも(家族にさえ)知られたくなかったのではないだろうか。

将軍家に関わる柳沢家に仕える身分として、多くの方に自分の出自に関して在らぬ誤解を与えては困

ると考えたのではないだろうか。

 

しかしながら実際の南郭という人は、争いごとが嫌いで「荻生徂徠」の高弟といっても徂徠

の経世論(けいせいろん)を初めとする政治思想や政治学には、まったく興味がなくただひ

たすら漢詩文学にのめり込もうとした人である。このことが太宰春台とはことなり徂徠学か

ら二分することとなるのである。

 

 

その反面、前田家ではどうであったろうかということに関して、私はこう考えるのである。

 「天野屋」は高岡由緒町人筆頭として、その由緒書を前田家に提出されている。由緒書は、前田綱紀

の時、はじめて城内の名士に提出を求めたところから始まる。

 この「天野屋」の由緒書に「正知八男元矩義京都別宅仕元矩二男元喬俗名小右衛門号南郭義

初松平美濃守殿知行弐百有余石被抱居候得共請暇江戸表へ罷出芝赤羽住居仕于今五代御老

中様方罷御侯様御用全相謹罷在申候同苗道之助義是席亦於同所別宅仕小右衛門同様諸大名様

方御用相勤罷在申候」と報告されてあるのである。

(後から出てくる人物は、南郭の兄に当たる「    」のことである。)

 すなわち、前田家の重鎮であるならば、南郭の存在は、明らかに知られているところであったのである。

 

また余談だが、高岡に住める医家の方や、漢詩にたしなむ「津島北渓」ら文化人たちは、南郭先生が高岡

ゆかりの方であることも承知で、このことを大層誇りに思っていたのである。高岡においても漢詩がはやり、高

岡詩話に多くの詩文が残されてあるように、高岡人はもっと「服部南郭」を、高岡ゆかりの人物として取り上

げてほしい。

 

つまり、加賀藩の家臣が何かしらでその情報を知りえたかということを考えた時、参勤交代などで、江戸に出

ていた家臣、杉本義隣(よしちか)か取巻きの人が、「服部南郭」と親交があったかどうかは不明だ

が、そして事件後老中「柳沢吉保」は当然、実況検分、或いは背後関係について調査を行っていたとする

ならば、その取り巻きの人たち、或いは当時のうわさなどを一番近い距離で知り得た服部南

郭」あたりが情報源ではないかという推論もいかがかと思うのだが?

 

そして、なぜ「天野屋次郎左衛門」なる人物を登場させたかということに関して、天野屋

の一族は、延宝初年(1673年)頃、何人もの一族が京都などに移り住んで商きないをし

ており、「天野屋三郎左衛門」自身が、関西方面の情報源として前田家、家臣杉本義隣」

親交があり、話をしている中から、「天野屋次郎左衛門」なる人物を武器ご用達張本人とし

て登場させ、後からになって世間がつじつまを合わせた。のではないだろうか。 そして「天

野屋次郎左衛門」では語呂が悪く、或いは何らかの話が伝わる過程の中で、特に「仮名手本

忠臣蔵」が書かれたとき「天野屋利兵衛」なる人物が生まれた、いわゆる後付けの人物では

ないだろうか。(ここらは、何の根拠もない話だが?)

 

 

テレビドラマ「水戸黄門」などでも、話の内容の多くは作り話であると思う,が、ある程度

歴史に忠実でならないとおかしい。そんな中で、歴史的に実在した名前などよく使われたり

するし、時代背景なども考慮しなければ話がややこしくなる。

物語の中には天野屋あるいは傳兵衛などが登場人物としてでてくることには気がついてい

たが、歴史の中で実際にいた人物、環境を色々仮定して、実際の「忠臣蔵」の話が出来てき

たのではないだろうか。

 

           四十七士「寺坂吉右衛門信行 」という人

 自分がもし、「大石内蔵助」であったとき当然、生き証人をおいたと思う。

それが「四十七士」最後に出てくる寺坂吉右衛門信行 」(てらさかきちえもんのぶゆき)

である。足軽の「寺坂吉右衛門信行 」(てらさかきちえもんのぶゆき)、(吉田忠左衛門の

足軽、322人扶持。足軽では唯一の参加者)は、討ち入り後に一行から立ち退いてい

るとされている人物である。

寺坂吉右衛門信行 」は討ち入り時は39歳。事件後に幾つかの家に仕えた後、最期は江戸

にて享年83歳で亡くなっている。

この男全国を安行する中、高岡の私が住んでいる、「川巴良諏訪神社にたち寄り、近くの

石に腰を下ろし煙草をふかして語った」ということが川巴良諏訪神社の境内看板に書いてあ

る。

これも果たして真実なのだろうか。或いは語った人物がいたとして、実際本人であったか

などは不明である。

 

  

   実際高輪、泉岳寺にある天野屋利兵衛の碑

(画像: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

      

仮説  「天野屋利兵衛」の名前の出所は「天野屋伝兵衛」ではないだろうか?