天野屋傳兵衛(服部家家系図)
先 祖 「紀ノ木莵宿禰」 (紀ノ武内宿禰の弟)
家紋は木瓜を使う?とあるが、木瓜は百姓の紋であるので何を使ったのか確認が取れていない
天野屋の家紋は、「角にかたばみ」であるが、もし知る方があれば連絡を!!
「服部伊賀守紀宗純」 服部の先祖は伊賀の服部村の出である。
宗純は同志50余家の人々と共に、宗良親王等に奉じ、東国地方に転戦したが破
れ、50余家は参河、尾張、近江などに分散した。宗純は尾張国津島に移住。
その後戦乱の時代になったので、服部の名前が見つからないが、元亀、天正の時代
(室町時代、1570年頃)になって服部周伍というものが現れた。
その子に「躬林」(通称 弥助)がいて、そのまた子が「連及」(甚吉)である。
甚吉の本国は、美濃の国郡上に住み、天正年中、前田利家が越前府中城におられる時
御用商人として召しだされている。その後文禄年中、三ヶ国へとある。
初 代 服部連休(通称、甚吉)(改めて天野屋三郎左衛門と名乗る)
また利家没後、前田利長公に仕え、守山城ならび富山城へ引越しされてからも追随し、
御用を勤めたとある。その後町人になることを願い出て、天野屋三郎左衛門を名乗った
とされるが、
後に改めたのが正しいらしい。慶長14年(1609年)3月富山城が焼失し、利長は
新城と新しい城下町の建設を、関野の地(現在の高岡)に建設を決め、それに伴い
高岡の地に一町(109m四方)という広大なお屋敷を、今の御馬出町に拝領するの
である。(高岡町の発展のための一番の責任を与えられたといっても過言ではない)。
しかし前田利長が高岡に入城して、わずか5年で利長が亡くなり、幕府からも一国一城令
だ出ると、高岡に住む家臣団はことごとく金沢に引き揚げてしまうのである。後に残った高岡
の町民は、僅か650所帯、2500人余りの人々は、途方にくれ、町を離れる人も出るので、
これを何とか止めなければと利常は、他所転出禁止令を出すのであった。
天野屋も町の運営どころか、家の存続もままならない状況に陥った為、城主に願い出て、
潰すのは惜しいということで認められ、越中の米場を設立するのである。越中の米56万石
の相場を司ることで、何とか息を吹き返したのであった。
慶長15年(1611)4月、横町屋弥三右衛門、越前屋甚右衛門と共に初代「町年寄」
を務める。(初めは「宿老役」といったが、元和6年より「町年寄」と称し10人体制とする。)
(寛文6年6月18日登城して、後継問題についてお伺いをたてている)
寛永6年(1629)7月12日病死 法名 浄照院連久日清
妻 武藤半兵衛娘 寛永21年(1644)2月23日68歳 法名 華徳院理玄妙蓮
一子 (女)正屋七郎兵衛妻、 号 理光院喜蓮妙啓大姉
二子 (妙浄) 三子 (妙秀) 四子 (清徳)6歳 五子 (妙寿)2歳
六子 (二代 正知) 1614~1684
二 代 天野屋三郎左衛門正知(南郭の祖父、初代の長男) 後に「天野屋傳兵衛」と
改める。 寛永6年(1629年)~貞享元年(1684年)38年間家督を継承
朱屋新兵衛代わり町年寄を務めるも期間は不明。かなり長くつとめた。
貞享元年(1684年)5月28日病死(71歳で歿)法名 昌久院道円日當
妻 妙円、伊藤内膳重正 養女(西村馬之助娘)元禄2年8月6日 70歳で歿
12子あり。
一子(女) 正屋七郎兵衛妻 寛永18年 法名 理光院喜蓮妙敬大姉
二子(男)長男 童子(夭折)
三子(次男) 天野屋傳兵衛正則 (三代 天野屋伝兵衛)
四子(三男)安右衛門正親 元禄2年2月22日 50歳 法名 受円院常俊日恵
五子(四男) 方盛〔和歌の心得あり〕、(越中屋半六、京都に住す、宝永5年、66歳で歿)
(甚助の家の先祖に「方盛」という能筆の人あり、方盛流を掲げて世に知られた人と
高岡湯話に出てくるのはこの人なのか?江戸でホーセイ流の歌書きが行われ、連歌にも
粗名があリ、方盛の甥だと伝え聞いている⇒南郭が甥に当たるが、越中屋半六の末裔
というのは表現が違うということである)
六子(女)正屋祖元の妻 宝永5年4月歿、蓮池院妙清日正
七子(五男) 知貞、(源右衛門、14歳、京都大黒屋に養子)
延宝元年5月26日、26歳で歿、法名、了幻院宗真(1648~1673)
八子(六男) 彦左衛門元矩(もとちか)(南郭の父、知恒)延宝元年(1673)、31歳の時、
家督を三男正則に譲り、隠居して京都車屋町に移住、名を亀屋彦左衛門と改めさら
に天野屋を名乗った。元禄8年(1696年)10月9日(48歳歿)号 中正院元矩日法居士
和歌を好み、妻は山本春正(蒔絵師)の娘、吟子、二子あり。
九子(女) 3歳で死亡 法名 妙安
十子(七男)知久 初名 清左衛門、槇屋宗松養子となり槇屋籐右衛門知久
(清水家3代)(1705年歿)延宝6年(1678)通り二番町(今の守山町)より、天野屋の
東側に移住、元禄元年(1688) 土井屋薬種商仕廻を譲り受け、槇屋の商号で薬種
屋を開店(享保15年(1730)9月20日、72歳で歿、妙栄)
十一子(八男)幼名、九郎治郎、出家して華雲法師 明暦2年2月7日早世
十二子(九男)「禅智院日顗大徳」(にちぎ)妙国寺の第5世延宝2年(1674)19歳で歿
(清水家にあった天野屋の家譜に正確に十二子載っておりました。)
八子(六男)元矩長男 元恵 (初名 平八、忠蔵と改め後、又左衛門、後 彦左衛門と
改める、大津に住し、後江戸に出て柳沢吉保に師事、正徳3年、33歳で歿)
二男が南郭。(幼名 勘助、通称 幸八、小右衛門と改め、宝暦9年77歳で歿)
当時13歳の時、父親が死に翌年江戸へ出て3年、柳沢吉保に致仕して、学業を
荻生徂徠に受けた。時に35歳であった。(字 子遷、号 南郭)
儒学を極め、吉保亡き後引退して芙蓉館を開き、明治に至るまで子孫6世8代にわ
たり「連綿」として学業を継承した。(実子は早世で子孫は弟子から)
三 代 天野屋傳兵衛 服部正則(正知の三子次男)寛文6年~元禄7年隠居まで11年間)
延宝7年(1679)2月~元禄7年(1694)8月 町年寄
元禄7年8月4日(57歳で歿) 号 一心院道融日事居士
妻 西村六衛門の娘(妙円の姪) 万池3年4月18日病死、法名 善明院明心日聴
後妻 妙通 羽田氏 貞享3年7月16日京都で客死(39歳で歿)
法名 天心院妙通日理 京都深草宝塔寺に葬る
一子(4代正武)
二子 吉十郎 号仲正院日冬
三子 正舎 天野屋甚助と改め別家し名跡を従弟市兵衛正當に譲り作兵衛と改名
元文元年10月12日 号 本具院道證日進 妻 天野屋安右衛門娘
四子 新七 京都に居住、菊屋を名乗る 享保3年(1718)3月21日歿 55歳
五子 クニ 鍋屋四郎左衛門妻
四 代 天野屋傳兵衛 服部正武
元禄7年12月~宝永3年2月御免、町年寄(19年間)
正徳元年(1711)それまでの御旅屋に変わり御本陣(藩主の宿)を命ぜられる
正徳2年(1715)11月25日病死、号 恵心院道安日慈 妙国寺
妻 香林坊善兵衛の娘 享保16年11月8日 号 吉祥院玅安日住
伯母が後妻としていったところの娘(先妻の子か?それとも従姉弟か?)
一子 (服部三郎左衛門知休) 二子(女)クニ 貞享2年10月10日 2歳早世
33回忌に院号日号を乞う 本理院妙還日證
五 代 天野屋傳兵衛 服部三郎左衛門知休
親傳兵衛跡相続 (正徳2年(1715)~享保10年(14年間家督)
享保2年(1717)高岡の米場を運営。米場主附を命じられた。
その頃勝手不如意になって御用も勤めかねる破目に陥ったところ、功労のある家柄を
潰すのは惜しいというので、奉行所に願い出て認められた。
享保10年(1734)12月31日病死 号 理心院道知日休 妙国寺
妻 金沢、石友四郎左衛門女 宝暦11年8月17日 号 感鷹院妙成日融
六 代 天野屋傳兵衛 服部正興 親傳兵衛跡相続(享保11年~享保19年(1735)
(9年間家督)(天野屋兵四郎男となっているので、婿養子か?)
享保19年(1735)11月17日病死、 号 円鷹院道源日充
妻 キチ 今石動天秤屋治右衛門娘 延享2年正月20日 34歳 春鷹院妙晃日受
一子(女) セン 寛保元年(1741)8月13日歿 号 恵林玅廓(しょうかく?)
七 代 天野屋傳兵衛 服部共好 (寛政2年18歳で町役人なる)
寛保2年(1742)~明和9年(1772)正月御免、町年寄を務める
(身の丈5尺8~9寸の大男で皆、大伝兵衛と呼んだ。
「実は小杉の某の子である。」と高岡湯話にあるが真実か?)
小杉 下条屋八右衛門男と判明、正興死後名跡相続 享保20年(1735)
明和7年(1770)米取引を金沢だけに限定されるも、金沢米場の建米はことごとく越中
米であり払米の大部分は越中で占め、輸出も越中諸港からするものが多いのだから、
高岡の米商人は、 この命令を理由なきものと談じ、依然として取引を継続した。
安永2年(1773)7月21日歿 體(てい)具院道実日性 妙国寺
妻 正興が34歳で亡くなったので、若くして後夫として入ったのか?
後妻 そしてキチの姪を後妻にもらっている 明和元年(1765)12月20日歿
嶺性院妙澤(?)日厚 後後妻 さらに佐野幸之進女、以あって介抱人と称す。
安永2年10月28日歿 号 聴性院寿考
一子(女)三辺屋宗四郎妻 6子あり
二子(男)伝五郎 元文5年8月13日(早世) 既泡童士
三子(女)チヨ 8歳 寛延3年(1750)