天野屋傳兵衛(服部家家系図) 

 

先 祖   「紀ノ木莵宿禰」 (紀ノ武内宿禰の弟)

    家紋は木瓜を使う?(服部嘉十郎先生、広瀬喜太郎著) とあったが、木瓜は一般的な

家紋であるので何を使ったのか不明。

服部党の多くは、「重ね矢」など変化させた家紋が多く使われている。

    天野屋の家紋は、「角にかたばみ」である。服部家の屋号が「天野屋」である。菩提寺

    高岡市片原町、妙国寺(日蓮宗)にあるなどから、先祖が同じ可能性がある。

    (しかしながら確証は取れていない。)

   「服部伊賀守紀宗純」 服部の先祖は伊賀の国阿拝郡(服部郷)の出である。

         宗純は同志50余家の人々と共に、宗良親王等に奉じ、東国地方に転戦したが破れ、

50余家は参河、尾張、近江などに分散した。宗純は尾張国津島に移住。

その後戦乱の時代になったので、服部の名前が見つからないが、元亀、天正の時代

(室町時代、1570年頃)になって服部周伍というものが現れた。

その子に「躬林」(通称 弥助)がいて、そのまた子が「連及」(甚吉)である。

甚吉の本国は、美濃の国郡上に住み、天正年中、前田利家公、越前府中城時代に

御用商人として召しだされている。その後文禄年中、三ヶ国へ追随した。

尾張の国の七党の一つ、服部党と呼ばれた、豪族、末裔は同じ一族となる。

(服部党-服部友貞が有名、伊勢長島城の城主を務め、長島一向一揆を主導、

 1568年、織田信長の謀略にかかり、打ち破られている。服部半蔵は、別系統)

   

初 代   服部連休(通称、甚吉)、改め天野屋三郎右衛門と名乗り町人となる。

       天野屋は服部家の屋号である。(菩提寺が同じ片原町、妙国寺である。)

       なぜ屋号が「天野屋」を名乗ったかは不明。ちなみに同じ町宿老であった

       「横町屋」(富田家)の屋号のいわれは少し面白い。初代富田新左衛門尉道信

15301590)は越前朝倉義景の家臣であった。朝倉義景の遺命により大阪本願寺

に在留するも朝倉滅亡後流浪の身となり、砺波郡蟹谷庄安養寺の横町に住んでいた。

二代目富田弥三右衛門宗清の時(天正年中)前田利家の越前府中時代に召しだされ、

伏見大阪に御用を務めた。その後利長と共に守山城に移りその横町に宅地を拝領して

住んだ。利長もその人望を買っていた部分もあって、いつも横町に住んでいたことから、

「よこちょ、よこちょ」と呼ばれ可愛がられた。そのような経緯から屋号が「横町屋」となったの

である。その後、富山城に移られた官舎に移住。三代「富田弥三右衛門可教」(1564

1635)の時、高岡築城と同時に高岡に移り材木などを拝領、高岡の宿老役を仰せ

つかった。正式に「横町屋」を称したのは四代目からである。

 

       天野屋もまた前田利家公没後、前田利長公に仕え、守山城ならび富山城へ引越しされて

からも追随し、御用を勤めたとある。その後町人になることを願い出て、天野屋三郎右衛門

を名乗った。高岡市史など参照)(三郎左衛門ではなく三郎右衛門と確認したい)

慶長14年(1609年)3月富山城が焼失し、利長は新城と新しい城下町の建設を、

関野の地(現在の高岡)に建設を決め、それに伴い高岡の地に一町(109m四方)という

広大な敷地と材木を、今の御馬出町に拝領し、住居を構える。

(高岡町の町建てに一番の責任を受けたのか?)

前田利長公は高岡に入城して僅か5年で亡くなり、幕府からも一国一城令が出され、

高岡に住む家臣団はことごとく金沢に引き揚げてしまうのである。後に残った高岡の町民

は、僅か650所帯、2500人余りの人々は、途方にくれ、町を離れる人も出るのであった。

これを何とか止めなければと利常公は、他所転出禁止令を出すのであった。

天野屋はその後町の運営どころか、家の存続もままならない状況に陥った為、城主に願い

出て、潰すのは惜しいということで認められ、越中の米場を設立するのである。越中の米

56万石の相場を司ることで、何とか息を吹き返し、高岡も経済的発展したのであった。

       慶長15年(1611)4月、横町屋弥三右衛門、越前屋甚右衛門と共に初代「町年寄」

を務める。(初めは「宿老役」といったが、元和6年より「町年寄」と称し10人体制とする。)

(寛文6年6月18日登城して、後継問題についてお伺いをたてている)

寛永6年(1629)7月12日病死 法名 浄照院連久日清

妻 武藤半兵衛娘 寛永21年(1644)2月23日68歳 法名 華徳院理玄妙蓮

一子 ()正屋七郎兵衛妻、 号 理光院喜蓮妙啓大姉

二子 (妙浄) 三子 (妙秀) 四子 (清徳)6歳  五子 (妙寿)2歳

六子 (二代 正知) 16141684

 

 

二 代  天野屋三郎左衛門正知(南郭の祖父、初代の長男) 後に「天野屋傳兵衛」

改める。 寛永6年(1629年)~貞享元年(1684年) 38年間家督を継承

 朱屋新兵衛代わり町年寄を務める(寛文6年までの38年間)。長くつとめた。

利常の時代に入り元和6年(1620)「他所転出禁止令」施行後高岡の運営に際し、

職務権限も広められ、体制を強化するため10人に増員され、その時から役名を

「町年寄」と改めた。その時任命されたのは、越前屋甚右衛門(伊藤)、天秤屋八兵衛、

天野屋三郎右衛門、横町屋弥右衛門(富田)、茶木屋(ちゃのきや)右衛門(日下)

尾張屋助右衛門、鏡屋与三、二上屋吉助(大菅)、菱屋源左衛門(川上)

朱屋新兵衛(あかのや)(多田)氏の10名。

その後、朱屋新兵衛の代わり町年寄を務めたのが、二代 天野屋三郎左衛門正知

と思われる。父親三郎右衛門と区別する意味合いから、「三郎左衛門」と改めたと

推測する。三郎右衛門の名は、寺崎家旧紀、高岡町役人役替血脈帳にそうあるが、

天野屋の由緒書には、「天野屋三郎左衛門」と名乗ったとあるので、誤解が生じた。

その後、時代が安定すると共に町年寄の定員は一定せず、減員された。

貞享元年(1684年)5月28日病死(71歳で歿)法名 昌久院道円日當  

妻 妙円、伊藤内膳重正養女(西村馬之助娘) 元禄2年86日 70歳で歿

12子あり。   

一子() 服部長兵衛妻 死後香林坊喜兵衛に再嫁 延宝五年5月18日

二子()長男  童子(夭折)

三子(次男) 天野屋傳兵衛正則 (三代 天野屋伝兵衛)

四子(三男)安右衛門正親 元禄2年2月22日歿 50歳 法名 受円院常俊日恵

五子(四男) 方盛〔和歌の心得あり〕、(越中屋半六、京都に住す、宝永5年、66歳で歿)

(甚助の家の先祖に「方盛」という能筆の人あり、方盛流を掲げて世に知られた人と

高岡湯話に出てくるのはこの人なのか?江戸でホーセイ流の歌書きが行われ、連歌にも

粗名があリ、方盛の甥だと伝え聞いている⇒南郭が甥に当たるが、越中屋半六の末裔

というのは表現が違うということである 京都深草宝塔寺 66歳

六子(女)正屋祖元の妻 宝永54月歿、65歳 蓮池院妙清日正

七子(五男) 知貞、(源右衛門、14歳、京都大黒屋又右衛門に養子)

延宝元年5月26日、26歳で歿、法名、了幻院宗真(16481673

八子(六男) 彦左衛門元矩(もとちか)(南郭の父、知恒)延宝元年(1673)、31歳の時、

家督を三男正則に譲り、隠居して京都車屋町に移住、名を亀屋彦左衛門と改めさら

に天野屋を名乗った。元禄8年(1696年)10月9日(48歳歿)号 中正院元矩日法居士

京都 妙覚寺に葬る。和歌を好み、妻は山本春正(蒔絵師)の娘、吟子、二子あり。

その一人が服部南郭である。

九子(女) 3歳で死亡 法名 妙安

十子(七男)知久 初名 清左衛門、槇屋宗松養子となり槇屋籐右衛門知久

(清水家3代)1705年歿)延宝6年(1678)通り二番町(今の守山町)より、天野屋の

東側に移住、元禄元年(1688) 土井屋薬種商仕廻を譲り受け、槇屋の商号で薬種

屋を開店(享保15年(1730920日、72歳で歿、妙栄)

十一子(八男)幼名、九郎治郎、出家して華雲法師 明暦227日早世

十二子(九男)「禅智院日大徳」(にちぎ)妙国寺の第5世延宝2年(1674)19歳で歿

(清水家より残っていた天野屋の家譜に正確に十二子全員載っていた。)

八子(六男)元矩長男 元恵 (初名 平八、忠蔵と改め後、又左衛門、後 彦左衛門と

改める、大津に住し、後江戸に出て柳沢吉保に師事、正徳3年、33歳で歿)

二男が南郭。(幼名 勘助、通称 幸八、小右衛門と改め、宝暦9年77歳で歿)

当時13歳の時、父親が死に翌年江戸へ出て3年、柳沢吉保に致仕して、学業を

荻生徂徠に受けた。時に35歳であった。(字 子遷、号 南郭) 

儒学を極め、吉保亡き後引退して芙蓉館を開き、明治に至るまで子孫6世8代にわ

たり「連綿」として学業を継承した。(こちらの家系図も、京都大学元教授 日野達夫氏著

「服部南郭伝攷」参照。現在も子孫の方がおられる。)

                    

三 代  天野屋傳兵衛  服部正則(正知の三子次男)寛文6年~元禄7年隠居まで11年間)

 延宝7年(16792月~元禄7年(1694)8月 町年寄

元禄784(57歳で歿) 号 一心院道融日事居士 

妻 西村六衛門の娘(妙円の姪) 万池3年4月18日病死、法名 善明院明心日聴

 後妻 妙通 羽田氏 貞享3716日京都で客死(39歳で歿)

 法名 天心院妙通日理 京都深草宝塔寺に葬る

一子(4代正武)

二子 吉十郎 号 仲正院日冬

三子 正舎 天野屋甚助と改め別家し名跡を従弟市兵衛正當に譲り作兵衛と改名

   元文元年(1689)10月12日 号 本具院道證日進 

妻 天野屋安右衛門娘 元禄2年正月27日 号 真如院妙悟日琢

   後妻 享保元年(1716)3月23日 号  通心院妙融日具

四子 新七 京都に居住、菊屋を名乗る 享保3年(1718)3月21日歿 55歳

五子 クニ 鍋屋四郎左衛門妻  天和3年6月25日歿 号 妙吐證

 

四 代  天野屋傳兵衛  服部正武   

元禄7年12月~宝永3年2月御免、町年寄(19年間)

正徳元年(1711)それまでの御旅屋に変わり御本陣(藩主の宿)を命ぜられる

正徳2年(1715)11月25日病死、号 恵心院道安日慈 妙国寺

妻 香林坊善兵衛の娘 享保16年11月8日 号 吉祥院玅安日住

伯母が後妻としていったところの娘(先妻の子か?それとも従姉弟か?)

一子 (服部三郎左衛門知休) 二子(女)クニ 貞享2年10月10日 2歳早世

                    33回忌に院号日号を乞う 本理院妙還日證

 

五 代  天野屋傳兵衛  服部三郎左衛門知休 

親傳兵衛跡相続 (正徳2年(1715)~享保10年(1725 14年間家督

享保2年(1717高岡の米場を運営。米場主附を命じられた。

その頃勝手不如意になって御用も勤めかねる破目に陥ったところ、功労のある家柄を

潰すのは惜しいというので、奉行所に願い出て認められた。

享保10年(1734)12月31日病死 号 理心院道知日休 妙国寺

妻 金沢、石友四郎左衛門女 宝暦11年(1761)8月17日 号 感鷹院妙成日融 

 

六 代  天野屋傳兵衛  服部正興  親傳兵衛跡相続 享保11年(1726)~享保19年(1735

(9年間家督)(天野屋兵四郎男となっているので、婿養子か?)

享保19年(1735)11月17日病死、 号 円鷹院道源日充

妻 キチ 今石動天秤屋治右衛門娘 延享2年正月20日 34歳 春鷹院妙晃日受

一子(女) セン 寛保元年(1741)8月13日歿  号 恵林玅廓(しょうかく?)

(両もらいで跡目を継がせたが、正興が若くしてなく亡くなったので、キチに再婚させた。

 それが共好であるが、そこで一旦血統は、切れたことになるのか?) 

 

七 代  天野屋傳兵衛  服部共好   (寛政2年18歳で町役人なる)

寛保2年(1742)~明和9年(1772)正月御免、町年寄を務める

(身の丈5尺8~9寸の大男で皆、大伝兵衛と呼んだ。

「実は小杉の某の子である。」と高岡湯話にあるのは、この人である。)

小杉 下条屋八右衛門男と判明、正興死後名跡相続 享保20年(1735

明和7年(1770)米取引を金沢だけに限定されるも、金沢米場の建米はことごとく越中

米であり払米の大部分は越中で占め、輸出も越中諸港からするものが多いのだから、

高岡の米商人は、この命令を理由なきものと断じ、依然として取引を継続した。

安永2年(1773)7月21日歿 體(てい)具院道実日性 妙国寺

妻  正興が34歳で亡くなったので、若かったので後夫として入った?

後妻  そしてキチの姪を後妻にもらっている。複雑。 明和元年(1765)12月20日歿

嶺性院妙澤(?)日厚  後後妻 さらに佐野幸之進女、以あって介抱人と称す。 

安永2年10月28日歿 号 聴性院寿考

一子(女)三辺屋宗四郎妻  6子あり

二子(男)伝五郎 元文5813日(早世) 既泡童士

三子(女)チヨ 8歳 寛延3年(1750413日 号 真受妙相童女

四子(男)甚吉 7歳 寛延3917日 号 岳耀(よう)観月童子

 以上4人の母親はキチ

五子(女)ウメ 三ヶ 村松長太郎兵衛妻

女(共好の娘、後後妻の子か?)=八代天野屋伝兵衛正躬の妻

号 浄心院妙要日修 

 

八 代  天野屋傳兵衛  服部正躬(しょうい) 歌道を楽しみ、謹直寛厚な君子人

分家の「甚助」であったが、本家を相続した。三人の娘がいた。

(分家の天野屋甚助家より本家を継ぐ)

安永2年  長女 シラ 槇屋六郎右衛門知足(清水家)の妻、21歳で夫に先立

たれる。再婚を勧めたが受けず、尼となってしまい26、7歳で歿。

次女 ムレ 知足の弟 三郎衛門輓(ばん)(清水少連)、 槇屋(まきや)籐右衛門荊山

(けいざん)の子(第六子)叔信を婿養子とするも、子供がいなくて文化2年(1805年)

秋歿。(高岡湯話より)

三女 トヒ後タガ  中村屋右衛門妻 

 一子 有吉  二子 文吉  三子 猶吉(ゆうきち)

天明2年(17826月~天明7年(17877月御免、5年間、町年寄を務める 

天明7年(1787)7月10日病死

 

九 代  天野屋傳兵衛   三郎左衛門叔信(しゅくしん)  天明7年相続

(名は輗(ばん)、諱(字)は淳卿(じゅんきょう)、又は叔信、号は相翁、楓葛?)

寛政10年(1798)正月~文化2年(1805)3月病死 7年間、町年寄を務める?

妻 ムレも文化2年3月5日33歳で亡くなっている。(何かあったのか?)

寛政12年(1800)4月18日 寛政の大火で四百数十戸焼けつくす。

槇屋(まきや)籐右衛門荊山(けいざん)の子(清水少連)、槇屋六郎左衛門知足の弟 

三郎衛門輓(ばん)初め「傳郎(でんろう)」といった。天野屋傳兵衛正躬(しょうい)の養子

になり、その薫陶を受けた。

         子供がいなくて相続して2年?文化3年(1805)寅年の秋(3月では?)45歳歿。と高岡

湯話に出てくるが、相続して2年で亡くなったのは10代の正重のことである。

さらに「文化寅年は3年(1805)であるから叔信(しゅくしん)が亡くなったのは文化2年であ

るから」高岡湯話での説明は、ここで話が少しごっちゃになっている?

(7年間町年寄を務めているので、確かに子供はいなかったが相続して二年とあるのは、

次の10正重  淑信の養子初名重吉の事を指している

品性高潔、よく公共の為に尽くし、ことに名称旧跡の保護に尽くし、享和2年(1802)5月

「大伴家持公遊覧之地」の碑を布施の円山の頂上(氷見市)に建てた。

万葉の碑では越中最古、撰文、山本有香、内藤元艦(金沢の医師)、題字、藤原定逸

(花山院藤公)

材質、砂岩(泉砂岩 1500×250)、(山本有香は高岡の旧家に生まれ、京都にでて山本

忠良と称し、油小路に住んで、医師をしていた)

             

十 代  天野屋傳兵衛    服部正重

      御塩問屋同運送方、並びに五箇山等御貸塩才許等に任命される。

淑信には子供がいなかったので、最初養子をもらう

初名重吉 天野屋甚助 男 正躬(しょうい)の甥(僅か2年間である)

文化三年丙寅71917歳で早世した。

号 只心院道因日行 

         高岡湯話にあるのは、⇒文化3年が(寅年)である?

文化3年(1806719日は旧暦で1ヶ月ずれるので(秋になるのか)

 

安永2年10月21日 号 廉(れん)讓院道興日仁

これは、天野屋新左衛門 の号であることが判明。安永2年は1773年であるし、

年代的にあわないことが判った。(妙国寺の過去帳にあった)

明和9年6月~安永2年10月21日歿 町算用聞  後に河嶋屋と改名。

         

十一代  天野屋傳兵衛   服部信  文化3年12月相続  瑞龍院様200回忌執行

文化9年(1812年)9月、御領国中入綿員数調整方並に御役銀取立方主附に任命

される。加越能三州に入ってくる一切の綿製品の管理と輸入税の徴収方を任されたので

ある。

文政4年(1821年)6月24日高岡火災(37か町、2300余戸を消失する大火災)の時、

天野屋も類焼した。その時、改築に当たり藩主より松の木50本、及び庭の植木30本)

を拝領したということである。(異例のことらしい)由緒書にも書かれてある。

          天保12年(1842)12月17日死亡  (三人の男子あり)

          妻 アイ 6代槇屋少連(北野家より入家)の三男、友蔵の娘。

(夫である連信とは誰なのか?=判明、平田屋宗治末男で八男正躬(しょうい)の甥

 

十二代  天野屋傳兵衛   服部三郎左衛門元業〔嘉十郎の父〕

           服部嘉十郎の実父である。文化11年(1815)連信の長男として生まれ、

天保9年(1838)家督を相続、文政9年(1826)2月~ 町年寄を務める。

(天保3年、服部敬作と高岡詩話にあるのは元業のことか?)

安政7年(1860)2月製の高岡町役人等の一覧表をみれば、その筆頭に総町年

寄を務めたと書いてある。当時47歳であった。

その時、祠堂銀裁許並(蔵廻り)をしていた天野屋伝兵衛なるのが、嘉十郎(16歳)

同じく12歳で散町己肝煎列(御用取次)をしていた「天野屋甚助」(天野屋の分家)

なる人物が天野屋外与次の息子か。他に何人子供がいたかは不明?

明治元年55歳の時、家督を(一子)嘉十郎に譲って隠居。明治3年眼病を患い盲目

となった。 明治13年(1880)1月18日歿、時に67歳  号 円長院道慶日順居士

 

          妻 民子  先生の実母。富田家八代善五郎の長女。富田家は高岡の名門由緒町人

          で代々町年寄を務めた横町屋弥三右衛門の妹である。

          民子がいかに家門の流を汲んで、教養深いものがあったかは、その直筆の手記をみれば一

目瞭然である。 明治13年58歳にして、その夫と死別し、一子嘉十郎に先立たれ、更に

その嫁とも別れて10年独居して明治30年(1897)10月24日歿、

享年75歳  号 円寿院妙常日亨大姉

 

         三郎左衛門元業には二人の弟があった。二男は 服部有年 (通称 天野屋外與次)

         只今この方の子孫について不明。もしかして「天野屋」の分家と関連性がある方か?

天野屋外與次については、

「甚助」は外與次の子供と考えられ、他に何人いたか不明である。

また、山本道斎らとも親交があり、高岡詩話にも詩を載せている。

高岡詩話によると、「服部有年は卓犖(たくらく)にして不羈(ふき)(非凡)であり、

沈毅(ちんき)にして宏才あり、(落ち着いていて意思がしっかりし、豊かな才の持ち主で

あり)書も詩もよくした。」とある。

天野屋外與次は丑年の5月18日辺りに歿している。嘉永6年(1853)か?

服部家の菩提寺が高岡片原町妙国寺であるから分家である天野屋外與次も当然

妙国寺にあるものと思われる。町役人の粥方主附、書記などを歴任している。

(天保の飢饉の時、町役人として飢餓難民を救うべき対応したことが記録されている。)

妙国寺に服部甚助家先祖代々の墓が残っている。甚助はやはり明治に入ってから

服部姓を使ったのではないか。墓石が服部家の墓石郡の中にあって大変小さいが

大正年間の比較的新しい墓石であることが判った)

 

もう一人

          三男は 清水梅顚(ばいてん) (通称 槇屋藤右衛門) (清水家10代)清水薬局

          文政8年(1826)天野屋11代連信の三男として生まれる。

         (名は冕(べん、めん)、字は天民、槇屋籐右衛門と称す)は素直で逆らわないが才があり、

謡を吟ずることを好んだが、惜しいことに亡くなってしまう。と高岡詩話に書いてある。)

妻は新保屋石川次郎右衛門の娘。  貯用銀裁許並。

          安政6年(1860)1月27日歿   (享年35歳)   

 

その長男  知易は槇屋11代は  23歳で死亡(妻子なく家督を二男へ)

二男 猪三郎(伊三郎知之)は槇屋12代、嘉永元年(1848年)6月23日生 

  長男 知易死亡後家督を相続、明治35(1902)年4月18日歿  (享年55歳)

 天野屋嘉十郎(服部)、天野屋甚助、そして11代槇屋藤右衛門(知易)の3人が、

         嘉永5年(18528月従来の塩売払方等を会勢せり即塩問屋小売人の名称を廃し、

         売捌人と称し、郡部に売払ふのは郡奉行に移したり と記録されていた。

         御塩売捌人 御馬出町天野屋嘉十郎(服部嘉十郎、7歳だが?)、

請人一門 天野屋甚助、同槇屋藤右衛門、組合沢田屋儀作、町頭道具屋、

同塩屋半四郎という名前が見られる。この3人は従兄弟同士と思われる。

 

服部冠斎(名は信といい、字は履吉(りきち?)、修道と称す=誰?

服部菊溪(けい)玄白、高岡詩話で「高岡の春」について8首詠んでいるが=誰? 

                            

 

十三代  天野屋傳兵衛 服部嘉十郎元善  服部嘉十郎先生である

         弘化2年(1845)8月9日生まれ、元業の長男として生まれる。実は姉 正子、

妹 利久子がいたがどちらも天折していて幼児より文字通りの一人息子であった。

         初め通称「嘉十郎」、後に「傳兵衛」と改め更に「嘉十郎」を名乗った。

         明治元年10月、24歳で家督を継いだ。その年はいきなり飢饉であり、飢餓難民のため

         奔走。ひとりの餓死者も出さなかった。しかし嘉十郎の家は不幸続きであった。

         明治3年には父が盲目となり、翌4年には妻、文子を亡くしている。さらに古くなった天野屋

         の屋敷を引っ越して間もない明治5年に火災で焼失している。それでも明治の混乱期の中、

         第十七大区の区長(現在でいえば、高岡市長)として、高岡学館の督学(校長)となり、

         県内随一とされる育英小学校を落成させたり、また古城公園の制定に奔走し、見事成し

えている。嘉十郎は盲目となった父親の看病をしながら、11年間依願退職と復職を繰り返し、

父親のなくなった明治13年(1880) 1月18日からわずか2ヶ月後の明治13年3月27日

自らも結核をわずらっていたので跡を追うように亡った。

         号 孝徳院道元日務居士  妙国寺に墓がある。

        

         妻 文子 尼崎藩大参事 服部氏初代元彰の次女 嘉永4年生まれ。

         明治4年9月4日亡。号 至心院貞芳妙実大姉

         実は男子2人生んだが、いずれも死産であった。妻亡き後、後妻をもらった

         これが五十嵐政雄の妹「かた」である。五十嵐政雄は篤学贈従5位

         五十嵐篤好の令息で、兄佐次右衛の準養子となった人で、「かた」は

         若くして寡婦になり、子供もいなかったので、五十嵐家へ戻った。

 

      (「嘉十郎」より四歳年下の弘化6年(1849)生まれの「天野屋甚助」なる人物、をおっている。

甚助は天野屋の分家の家督の名前であり、6代目に当たるのかもしれない。また明治期を生き抜

いていてもおかしくもない。服部甚助家は本家同様、絶えてしまったのか?

 

 

十四代  服部嘉十郎

         能登羽咋郡南巴知村菅原の永野久治郎の四男、幼名 与三作という。

         明治23年入籍、翌1月家督をうけ同年2月4日嘉十郎と改名した。

         昭和10年5月26日亡 (享年71歳)妙国寺に葬る。

         号 義興院顕性日嘉居士

         妻 とみ  松田三七郎 長女   明治1064日生まれ

         長男  知治  明治281016日生まれ

二男  正親  明治317月生まれ

(川原小学校卒業名簿に第10回卒業生として、載っている服部甚吉は、この方か?

 私の祖父、天野勢一と同級生である)

 

三男  外二  明治346月生まれ

長女  富久子  明治386月生まれ

次女  静子  大正72月 9歳で亡

 

十五代  服部知治 

         東京都 中野区大和町69番地 在住?

         (現住所には、服部家はなかった)

         妻 亭留(つる) 木谷長次郎 妹  明治37317日生れ

         二子あり  長女 芙紀子  昭和15年8月17日生        

                次女 芙二子  昭和22年2月22日生 

         高岡市立博物館に常設展示場に現在、天野屋の屋敷絵図が掲載されている。

         その寄贈されたのが「長谷川芙紀子」氏であることが判った。天野屋の遺品を相続

         されていると思われるので、消息などが判ればお話を伺いしたい。

                      

このように「天野屋」は利長公が高岡の町を開町されて以来、260年以上13代に渡り家督を相続し、

町役人を高岡開町以来務め、ただひたすら高岡の発展と民衆のため、そして前田家のために奔走してき

た由緒ある家柄である。高岡開町した慶長14年9月には、追随した士臣は434人と従・足軽など130

余人、そしてこれを目当てにした町人など合わせて5000人程度でスタートした訳だが、同19年5月

利長が逝去し、高岡城も一国一城の令により廃城になることで一気に家臣たちは金沢にもどり、戸口で

600戸位に、人口にして2500人と半分ほどに減った。

 

前田利常は、元和6年(1620年)高岡からの転出を食い止める為、足止を命じ、それから高岡商工の町

として栄えるよう数々の特権を与え再興を図る。それからが高岡の実際のスタートとなったのである。

天野屋も町の運営どころか、家の存続もままならない状況に陥った為、藩主に願い出て、潰すのは惜し

いということで越中の米場を設立することが認められた。越中の米56万石の相場を司ることで、何とか息

を吹き返したのであった。越中、射水は豊富な米どころであった。御城跡に数々の米蔵をもっていたことで、

後になって金沢より米場は金沢だけにしてほしいとなっても、高岡は頑なに維持したことが、今日の高岡の

発展に大きな役割を果たしたのである。

 

高岡の町は、その後順調に発展をし続けたかと言ったら、必ずしもそうではなかった、高岡人の不屈の精神

と英知と弛まぬ努力によって今日があるのではないだろうか。

高岡は幾たびかの大火災、大洪水、飢饉などにも町を挙げて乗り越えてきた。また、利長公の100回

忌、150回忌、200回忌、最後は250回忌の法要などには、金沢の前田藩関係者がこぞって高岡入り

をしたので、それこそ一大イベントであったに違いない。多くの町衆宅がその受け入れをした。

 

嘉十郎は、明治維新のいわゆる激変の中で、初年の飢饉には、ひとりの餓死者も出さずに難民を救済

し、古城が民間に払いさげられるのを阻止し、また高岡学館初め教育の発展に多大なる貢献をした。

それは、単なる思い付きや気まぐれだけでは、絶対そういう行動は取れなかったと思いますし、それが高岡

をただひたすら愛した証拠であるとともに、天野屋の家督そのものであった。

 

今は、家屋敷もなく、その子孫もなく、その面影すら知る人はない。おなじ日蓮宗妙国寺を菩提寺にも

つ「天野屋」の屋号をもつ一族が「服部家」と無縁であるはずがない。檀家そのものが服部と何らかのつな

がりがあるいわゆる「一族」(同族)であるといっても過言ではない。

 

未確認ではあるが天野屋は、「服部家」の分家であったのか。当時の家督のあり方を知ると、そのことが

関連づけられる。

家督の相続であるが、封建時代は個人より、家が尊重されたという背景がある。

婚姻でも遺産の相続でもすべては家の名跡を継続発展させることが大前提であったから、長男の単独

相続が原則であり、みだりに分家することは許されなかった。もちろん女子の家督相続も認められなかった

ので、長男がいなかったり、故障があったりすることも考えられるし、必ずしも摘出子が相続人でなけ

ねばならないということもなかったので、男の子がない場合は予め相続人を選定しておく必要があった。

庶民階級では武家ほど厳しいものはなかったとはいえ、家柄のある名跡についての家督の相続は

特に厳重で、町年寄、町算用聞の遺言状は、町会所において同役列席の上開封し、町算用聞、町

本町肝煎などの遺言状は、当番の町役人が、立ち会って、死亡者宅で開封するほどであった。

一般庶民の場合もこれに準じ、町肝煎以下町頭組合など立会いの上、一門、相続人を呼び出して

遺言状を開き、自今一切申し分のない旨の誓約書を町頭へ提出させたのであった。

また、百姓と町人との婚姻さえ強い制限を加え、戸籍の管理は厳重極まりないものであった。

(一つは農村人口の減少を抑えることと、純朴な風儀の退廃を恐れ、キリシタンを防止するためでもあった)

そのため仏教の僧侶に毎年「宗門改」をさせ、出生、死亡、婚姻、出稼を管理させ、「寺証文」がなければ、

婚姻することも、移住することも、一切の身分移動が許されない時代であった。

高岡に他にも天野屋を名乗る家があるが、どれも皆「浄土真宗」の出であることから「天野屋」

とは直接関係がないように思われる。分家筋であるという一番の根拠は、服部家と同じ宗派で菩提寺も

片原町の妙国寺にある。

 

「服部」姓は、江戸時代に苗字御免となった由緒ある姓。それで当然分家筋であっても「服部」姓を

名乗ることは出来なかったと思われるので、血縁があっても分家は「天野屋」の屋号のままであった。

実際、天野屋傳兵衛 服部正躬(しょうい)という方は、天野屋の分家より本家を相続されているが、

分家の「甚助」という名前は、代々引き継がれたりするのでややこしくなって混乱を招いている。

 

現在服部家の最後の子孫である「服部知治」「亭留(つる)」氏、両名とも亡くなられ、その後の家系は

わかっていないが、数年前、妙国寺にある服部家のお墓は、墓地改葬に基づき、山門を越えてすぐ左

の「山本道斎」の石碑のすぐ後ろ側に移転された。そのとき立ちあわれたのが服部家とも深いつながりの

ある清水薬局の現15代当主「清水孝次」氏であったと聞き、今は誰もお墓参りにこられる人はなく、無縁

仏状態である。

天野屋伝兵衛の子孫は二代目の正知の子供が12人いたので、多くは京都に移り住んだ二代目(正知)の

子孫に繋がる家系があると信じている。     

 

 服部南郭の子孫が現在も長野県にお住まいになっておられるとのことであった。(二代元雄、三代元立、

四代元雅、五代元済、六代元続)。七代元彰は明治維新による廃藩後は内務省に出仕、地理局第三部

編纂課長となり、八代元彦は東京大学古典講習科に学び、国語・国文学者として活躍した。(現在長野県

に在住)

しかし南郭の直系である子として二子は、長男 惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世す。

よって門人「西村元雄」を季女に配して家を継がしむ。とある。つまり南郭の直系に繋がるDNAもそこで途切れ

ているのかと思ったがそうではなかった。

 

私は高岡で「天野屋」の名前を受け継ぎ商売をしているところから、「天野屋」の家計図についても調査をして

いる。天野家も武家の出身であるという言い伝えから、高い確率で「天野屋傳兵衛」とも同じ血縁で繋がる

可能性は高い。(一部は自分の直感が大きい。)

 

現実には現在、十三代 天野屋傳兵衛 服部嘉十郎元善の叔父に当たる

二男 服部有年(通称 天野屋外与次)(高岡詩話に数々の詩が載っている)がどこに繋がるのか子孫は

いるのかなど。

他にも「嘉十郎」の四歳年下で、分家とする「天野屋甚助」なる人物がいたことも分かっているが、妙国寺にある

服部甚助家先祖代々の墓は、この方の墓なのではないか?

 

「天野家」からすれば、「長崎市右衛門」天野家の本家から長男であるにもかかわらず、長崎家へ養子に出

向かれたかたで、明治期に魚市場の民営化に尽力された方がある、この親がどうゆう名前だったのか、現在わか

っていない。

この家も、さきごろ亡くなられた当主が「第六代の長崎市右衛門」であった。

天野屋は「又吉」の屋号で、先代の「又吉」が「長崎市右衛門」と兄弟であり、二代目「又吉」と3人で設立

したのが「サンボン魚市場」であった。このように最近まで、親の名前を、家督としてを受け継いでいることなど

からも、何か繋がりがあるのかも知れない。

 

江戸末期に、高岡で大きな仏事があった。それが「前田利長」公の200年忌だが、当然高岡挙げて

のビックイベントに付き、それにかかわった人の中に「又吉」が登場するのですが、それがうちの先祖であるかど

うか確認が取れていない。

 

もう一つ手がかりになることがある。それが「家紋」があると思う。天野家の一族家紋は「かたばみ」である

が、これを角(菱)で囲んでいます。これもすべて本家と同じ家紋を使うとは限らず、裏紋や一部変えたりする

こともあったりするので、注意して調べてみたいと思う。ちなみに「服部家」の墓には、家紋はついておらず、

家の位牌や過去帳などは、妙国寺も高岡の度重なる大火で焼けており、残っていないのが残念である。

また、天野屋の本家は、一番新町にあったが、聞くところ以前は、御本陣のあったすぐ近くのの風呂屋町

(白銀町にも天野屋がいたが)に住んでいたらしいことが分かった。

 

現に、私のいとこは、大阪で整形外科の医師をしているが、現在現役で5名のものが医師をして活躍

している。(脳外科医1人(若き女性)、整形外科医1人、形成外科医師1人、眼科医師2人(二人とも

女医)、これも天野屋の先祖からの受け継がれるDNAを受け継いでいるのか?(おまけ)

 私らも、このように子孫繁栄で幸せに暮らせるのも、やはり先祖のおかげかと思われる。

 

なお、また新たに天野家にまつわる情報が分かれば、随時更新してまいります。    

 

                        平成22年1月25日更新         天野修一