由緒町人筆頭 天野屋伝兵衛(服部家)

天野屋の初代、甚吉連及は天正年中、前田利家(高徳院)越前府中時代に御用商人として召しだされました。利長に従い越中守山を経て富山に移っ

た際、町人となり「天野屋三郎左衛門」と名乗りました。(高岡市史では三郎右衛門が正しいとされている)※

前田利長(瑞龍院)が慶長14年(1609年)高岡開町に従い、御馬出町に1町(3000坪)(約109メートル四方)という広大な宅地を賜り、翌年町宿老

命じられます。高岡町人の最高位の「由緒町人」(他に横町屋弥三右衛門、越前屋甚右衛門)筆頭として、260年にわたり家督を相続、その間、町年

寄を代々務めるなど、ただひたすら高岡の発展と前田家のために尽力してきました。

正徳元年(1711年)、4代伝兵衛の時、天野屋はそれまでの加賀藩営であった「御旅屋(おたや)」が古くなったので、民営の、藩主旅館「御本陣」(藩主

の旅館)に指定され、13代嘉十郎の時まで代々世襲しました。天保4年(1833年)には「服部」姓が苗字御免となりました。江戸時代を通して高岡の有力

な町人であった天野屋(服部家)本陣跡の見取図が博物館に残っています。土間・白洲・奥・貸他家・他白洲・他人家がそれぞれ色分けされています。

                       

 初代は「三郎左衛門」なのか「三郎右衛門」なのか?

      現在「三郎左衛門」なのか「三郎右衛門」なのか確認中ですが、高岡市史においては三郎右衛門が正しいとなっています。これは(寺崎氏旧記)によるも

のですが、高岡市史料集に出てくる天野屋の由緒書を訳したものでは三郎左衛門となっております。どちらかが正しいかではなく、これは私の推測ですが、最初

名乗ったのが三郎左衛門であったのが確かであったとして、次の長男が家督を相続して名前を受け継ぎ(元和6年(1620年)10月2日)高岡町民の他所転

出を禁止した際、町年寄を10人体制にしたのであるが、その後朱屋新兵衛という町年寄の代わりに息子の二代目が、三郎左衛門を名乗り列記するのであ

るが、その時は「三郎右衛門」であって、のちに変更したとは考えられないだろうか。(大変紛らわしいのである。)しかしながら調べていくと、やはり三郎右衛門と

名乗った事実は確かにあった。また鶏冠井良徳の「崑山集」(慶安4年刊)四に、「越中のあまのや三郎右衛門に  花にこしはふかしきがんもありそ海」 長頭

丸の一句が見えて、この「あまのや三郎右衛門」はまず間違いなく服部三郎左衛門正知であることが日野龍夫先生の本にも書いてあったところから、初代が名

乗ったのが「三郎左衛門」が正しく、二代目が最初「三郎右衛門」を名乗り、のちに「三郎左衛門」と改めたと考えたほうが自然であると思われるのである。

 

天野屋(服部家)の先祖

服部家の先祖は、伊賀服部郷(三重県伊賀市)の服部伊賀守紀宗純です。紀ノ武内宿禰の弟紀ノ木兔宿禰より出ているので、家紋は木瓜である。

宗純は南北朝時代、同士五十家の人々と共に、宗良親王を奉じて東国に転戦するも敗れ、参河、尾張、近江などに分散した。宗純は、尾張津島に

(愛知県津島市)に移住しました。その後戦乱の時代になり、服部の子孫の名は見当たらなくなったが、元亀天正のころになって服部宗伍というものあり、その

子の祐(?)林(通称弥助)の子が連及〔甚吉〕いわゆる天野屋の初代(三郎右衛門)となるのである。

連及は前田利家に仕えて度々の合戦に従軍し、天正年間に利家が越中に在城のころ、召しだされて種々の御用商人を承り、利家が色々なとこへ、引

越しされた時も御用を勤めた。文禄年中、加越三州を支配するようになってから、利家公が越中守山に移られたときも、お供して守山に移り、伏見へ行かれ

た時も内命を帯びて使えたということである。

慶長10年に利長に従って富山に移り、この時に町人になり、天野屋三郎左衛門を名乗りました。(二代目が同じ天野屋三郎左衛門なので紛らわしい)

慶長14年年長が高岡を開くと高岡に移り定住しました。慶長15年に服部連久は他の二名(横町屋弥三右衛門、越前屋甚右衛門)とともに町宿老に任じ

られ、元和6年に7名を加えて町年寄10人の制に改まった後も、高岡由緒町人の三家として新年拝賀に金沢へ登城する家柄でありました。二代目正知(

郭の祖父)の妻の妙円の養父の伊藤内膳重正は、高岡町奉行であり、4代目正武の時には、正徳元年に本陣を命じられ幕末に及んでいます。古城公園の

存続に貢献した服部嘉十郎は、13代目の天野屋傳兵衛(嘉十郎)。

 

                                 「天野屋」は服部家の分家筋か?

 服部家は苗字御免の上いただいた由緒ある姓ですが、当時はむやみやたらに分家することは、許されませんでしたので、「天野屋」の屋号のまま明治を迎え、

「天野」姓を名乗ったのではないかと思われます。

また、服部嘉十郎自身兄弟はなく、二人の子供もどちらも死産だったので、14代目は能登より養子をもらわれて後を継がせています。現在、この服部家に繋

がる直接の嫡出子をもった(血族)子孫の確認ができておりません。(お心あたりのある方は天野屋までご連絡いただければありがたいです。)

7月16日京都にある妙覚寺に行ってきました。妙覚寺は服部南郭の父、彦左衛門元矩(もとちか)が京都に移った時に檀家となったお寺です。しかし残念な

がら明治にはいってから檀家と呼ばれるところは、三つの寺に分散された為、家系につながる情報は得ることはできませんでした。四季もみじがとても美しいお寺

で、500円の拝観料が要りますが、隠れた京都の風情を味わうことが出来ました。

さて、天野という姓自体今となっては多く存在しますが、私のところがなぜ可能性が高いというと、服部家と同じ宗派、日蓮宗で菩提寺も同じ高岡の妙国寺に

あるため、わずか100軒程度の檀家寺の中にあるので、服部家の分家筋であることが高いと思っております。(確認が取れておりませんが)お寺にある過去帳が

過去の火災で紛失していたり、服部家がどんな家紋を使っていたなど詳しい事実を知る方もいませんので、現在調査中です。

 御馬出町にある清水家(屋号 槇屋)は天野屋と深い血縁で結ばれた家系なので、色々聞いたりしております。

 前田利長は、高岡に町を開くとその運営を町奉行以下、町宿老(町年寄)を先頭とする町役人に委ね、江戸時代260年に渡り安定した町運営を行って

きました。加賀の百万石を支えてきた背景には、こうした運営の手法と農政の確立が挙げられると思いますが、その中心的役割を果たしてきたのが「天野屋」

であったのです。  高岡の歴史においても幾たびかの苦難(大火災、度重なる水害、飢饉など)を乗り越え、現在の高岡が発展できたのも「天野屋」の功績が

大変大きいと思います。もちろん町民との一体とした連携、「町を愛する心」があったからこそ、それらを乗り越え発展できたのですが。

高岡の方は、あまりそのことをご存知ではないし、意識が薄いのではないかと思います。 江戸時代の藩運営をみていると、確かに封建時代の偏ったレベルも

決して高いとはいえませんが、明治以降の200年を振り返って比較した場合、それこそ自由と平等を理想と建前にしてきましたが、実際は軍国主義に傾倒し

ていき、経済でも教育でもなお格差社会を生み出し、環境を破壊し、秩序を乱し、本当に幸せな社会を形成しているといえるのだろうかという疑問を感じて

おります。歴史は元に戻ることは出来ませんが、歴史から学び、本当に幸せを実感できる社会をこれから目指すことは出来ると思うのです。

 

御本陣について

 御馬出町のNTTの建物前に「御本陣跡」の碑がある。江戸幕府が寛永12年(1635)に各藩主に参勤交代を命じた。これをうけて藩主の江戸表への

往還の際の御旅屋として現在の御旅屋に一国一城令によって廃城となった高岡城の取り壊し材によって藩主のお泊りになる御旅屋が建てられた。御旅屋

町の町名の所以である。表に御旅屋門、裏に小門をおき、後ろ庭が桜馬場につづき、内外に濠池が設けられていた。この御旅屋は3代利常から5代綱紀

の頃まで使われていたが、正徳の頃に老朽化したことで取り壊された。

その後、町方の大家が御宿に充てられることになり、御馬出町の服部家「屋号 天野屋」が本陣として用いられたのである。「高岡湯話」によると、8代天野屋

傳兵衛服部正躬(まさみ)は、御本陣の当主としてお殿様の宿泊の230日前から家の煤(すす)を払い、掃除をして家の臭いにまで気を配り、慎んで外出を

避け、家にいて毎晩、帯も解かずに夜中に家中を回る。やがてお泊りになる35日前になると、手燭をもって障子の桟を照らして、1つ1つ撫でて塵埃がないか

確かめていた。と伝えている。このように藩主の本陣になる服部家の当主も大変であったということである。

本陣は、また幾度かの高岡の大火にも類焼をみたが、その折にも前田家より松の木を拝領するなど特別の待遇であった、また本陣を運営することは、経済的

にも大変であったと思われ、当初は高岡一の所得もあったとされるが、実際は中々そうではなかったらしく、運営を救うことから米場主附を任され、それ以後持ち

直したという経緯もある。

 そして大きな転換となったのが明治維新であり、たとえ由緒家系であっても、特権があった上でのこと、そのうちだんだんと衰退していったのかもしれません。

 明治18年高岡米商会所(米穀取引所)が創立され、当初通町一番地にあったものが、この本陣のあった跡地に新築移転しています。それが六角形で二

階建てのユニークな建物であったことから、市民には「六角堂」の名で長く親しまれてきました。

                                       

                             服部嘉十郎(天野屋傳兵衛)のおかげ

  服部嘉十郎は、弘化2年(1845年)8月9日、天野屋の13代目として父三郎左衛門元業、母民子の長男として御馬出町に生まれ、名は元善。初め

嘉十郎を通称とし、後に伝兵衛、また嘉十郎と改めます。時に父32歳、母23歳の時でした。実は嘉十郎には、姉正子、妹利久子がいましたが、いずれも

幼少に亡くなっており、文字通り一人息子でありました。幼いころより四書五経・詩文・絵画などの学問・文芸に秀で、特に「孝経」は全て暗記し、座右の書

でした。福光の宮永菽園(しゅくえん)に師事し、人柄も温厚な君子人であったといいます。

明治元年(1868年)10月、24歳で家督を相続し、町役人に列します。(安政7年(1860年)の町役人諸役懸役附列帳に総町年寄に列記されている

服部三郎左衛門(47歳)は嘉十郎の父であり、その中に祠堂銀裁許並、蔵廻りの役職についている天野屋伝兵衛(16歳)こそが嘉十郎である、つまり、早

い時期から、天野屋伝兵衛を引き継がせ教育されていたことが伺える。)、明治3年、第17大区区長(現在の高岡市長に相当)に就任。同5年(1872年)

郷長兼戸長に任ぜられ、明治初年の飢饉には貧民救済に奔走し、一人の餓死者も出すことはありませんでした。

(これも決してその時しのぎの政策ではなく、江戸時代の天宝の飢饉はじめ数々の苦難、大火災、千保川の氾濫、洪水など多くの天災を町挙げて乗り越えて

きた経験とただひたすら高岡の発展と幸せを願ってきた天野屋の家訓がそうさせたのだと思う。) 

また高岡初の公立学校「高岡学館」の督学(とくがく)となり、同9年(1876年)当時北陸随一と称された高岡育英小学校を新築落成するなど高岡の教育

においても多大な貢献をしています。明治維新の激変の中にあってそれまで藩政の中で多くの特権を与えられていた由緒町人は一気にその力は、無くなった訳

でありますが、そんな激変の中においても何が大切で、何をしなければならないかを冷静に判断した嘉十郎の行動は、260年もの長きに渡って家督を相続し、

高岡をただひたすら愛した家柄だからこそできた証だともいえるのです。

 しかしこの間、嘉十郎の家庭は不幸続きでした。27歳の時、妻文子を20歳で亡くします。妻文子は尼崎藩大参事、服部氏初代元彰の次女で、嘉永4

年生まれ、これも男子2人生んだが、いずれも死産であったといいます。その後、後妻は五十嵐篤好の娘方(五十嵐政雄の妹)「かた」と再婚するが、若くして

寡婦となり、五十嵐家へ戻られたそうである。

さらに以前より病弱な両親の看病に尽くしていましたが、父は明治3年より盲目となり、のち寝たきりになってしまいます。嘉十郎は父が亡くなるまでの11年

間、日夜看護につとめ、その間看護に専念するため幾たびも依願退職と、復職を繰り返しています。

 そのうち31歳の頃より嘉十郎自らも肺結核にかかり、父の死後2ヶ月後の同13年(1880年)3月27日、あとを追うように逝去しました。享年は、わずか34

歳でした。服部家、並びに嘉十郎のお墓は、片原町妙国寺にあります。号 孝徳院道元日務居士。

 

*高岡古城公園の創設

嘉十郎の業績として見逃せないのは、高岡古城公園の創設にあります。

明治3年、旧藩時代の権威を象徴するかのような各地の城は、次々と撤去されていく中、高岡城の跡も樹木を伐採し、開墾地として民間に払い下げる通達

を出しました。

5年、その旨を受けて七尾県は、払い下げを断行、その結果地所は4,250円で藤井能三に、樹木は1,000円で内嶋六平に落札されていました。高岡

城跡は、昔から町民が「古御城」と呼んで町の誇りにしていただけに、町民は驚愕しました。しかし実際には開墾は行われませんで、払い下げを見合わせる通

達が出されました。それは高岡区長(現在の市長)の服部嘉十郎は、国が西洋諸国に見習い「公園条例」を制定したことを知り、翌年の射水神社の遷座決

定も追い風になったのでしょうか、城跡を公園として残し、町の人たちの共有物としようと考え、関係者の鳥山敬二郎(天保13年~大正15年、後の衆議院

議員、高岡市長)や藤井能三(弘化3年~大正2年)らと共に、落札した人たちにも権利を放棄してもらうよう奔走し、公園指定の請願書を提出したことに

よります。

明治6年公園条例が公布され、そして2年後の明治8年(1875年)7月4日、高岡城跡は正式に公園に指定されました。このようにして、高岡古城公園は

開祖前田利長以来の由緒と市民の誇りとして、今もなお息づいているのです。

 昭和30年(1955年)公園創設80周年記念にあたり、古城公園中ノ島に「服部嘉十郎先生頌徳碑(しょうとくひ)が建立され、毎年4月に顕彰祭が頌徳

碑前で行われ、その遺徳が偲ばれています。

 

ひゃくだいようぶんしょう [3167] 
〈服部氏〉百題用文章  【作者】服部嘉十郎作。【年代】明治八年(一八七五)刊。[京都]田中治兵衛ほか板。【分類】消息科。【概要】異称『〈服部嘉十郎著〉百題用文章』。

半紙本二巻二冊。上巻に「年肇状(ねんとうじょう)」以下四七通、下巻に「納涼ニ誘フ文」以下五四通、合計一〇一通(一〇〇題に「某塾ノ生徒ニ贈ル文」の一通を追加)を収録

した用文章。上巻には主に四季贈答の手紙や吉凶事に伴う手紙を、下巻には諸用件中心の手紙(依頼状・誘引状など)を載せる。本文を大字・五行・付訓で記し、漢語の多くに

左訓を施す。〔小泉〕  (下巻が国会中央図書館に所蔵されています。内容がデジタル化されていて見ることが出来ます。)

 

十七條憲題教義略説  【作者】服部嘉十郎。  この本に関しては、現在私が所有しております。 古本で見つけたのですが、歴史的価値があると思われます。

                                  服部嘉十郎は、教育の大切さを認識して高岡学館を創設するなどした原点を、この本から感じます。

 

                             服部南郭(はっとりなんかく)の生い立ち

ちなみに服部南郭、(天和3年(1683年)9月24日~宝暦9年(1759年)6月21日)は二代目三郎左衛門正知の孫です。

正知の六男に当たる南郭の父の彦左衛門元矩(もとちか)、母は蒔絵師の山元春正の娘、吟子(ぎんこ)の次男として出生している。長男、彦左衛門元恵

、二男小右衛門元喬の二子を設けたが、これが南郭である。延宝4年(1676年)京都に移住した父、元矩(もとちか)、が移住後、母と京都で知り合い、結婚

して生まれたというほうが筋がとおる。(正徳元年の南郭が、自ら認めた「親類書」に、自分の名の上に、「本国越中、生国山城」とある。これによると、家は越中

高岡の出であるが、自分の生まれは山城(京都中京区車屋町)であると書いている。(京都生まれは間違いないようであるが、父の元矩(もとちか)は、29歳ま

で高岡に住んでいたようである。また高岡詩話を執筆した津島北渓によると南郭が幼少の時父母に連れ立って京都に言ったというのであるが、これは父親の正

知が南郭の父親、元矩を連れ立って京都に延宝4年に移住したことを勘違いしたことから書かれた可能性が高く、移住後、山元春正の娘、吟子(ぎんこ)と知

り合い、結婚して生まれたのであれば、南郭が高岡で生まれた可能性は低いのである。)父「元矩」の実家の高岡の天野屋は、北陸から京都へ移入物資

を扱う問屋であり、京都へ移住した天野屋の人々もそれらを扱う問屋的な営みをしていたと考えられ、高岡との行き来もあったと考えられる。現に元矩の兄の方

盛は京都の車屋町に「越中屋半六」として八講布を扱う絹問屋を構えていた。元矩も高岡詩話によれば、「間散餘録」に北国屋という名で、店を構えていた

ようである。(結婚後仕事の関係で高岡と行き来があり、妻の吟子(ぎんこ)とともに高岡にいた時に出生したと考えられなくもないが不自然である。)

 八講布といえば、当時越中は全国有数の布の産地で、高岡開町間もない寛永12年(1635年)に藩では、高岡に布御印押人を設置し、越中産の布

をすべて高岡で検印を受けさせることで、高岡商人を保護した。このことから、服部家が、布御印押人として問屋的な地位にあったものと思われる。

(天野屋が布御印押人をしていたという記録はないが、色々越中の産物を取扱う立場にいても不思議ではない。)

 宝永年間には、12万疋(ひつ)(80尺、2反)の取扱いがあったといわれ、これらの布が、京都に向けて運ばれていたものと思われ、また元矩の長男の元恵

が一時大津に住んでおり、これも北陸から上方への向う物資の集散地であったこととかかわってのことと思われる。

 

服部南郭について

服部南郭は、荻生徂徠の高弟として知られ、江戸時代中期の日本を代表する儒者、漢詩人、画家であったと伝えています。

幼名は勘助、名は元喬(げんきょう)、通称は幸八(こうはち)、のちに小右衛門(しょうえもん)、字を子遷(しせん)、号は芙蓉館(ふようかん)、画号に周雪

(しゅうせつ)、観翁(かんおう)など、中国風に服南郭、服元喬、服子遷と名乗ることもあった。

風流絵画の人で和歌絵画をよくし、詩文の名声高く、文芸の士の欽慕を集めた。徂徠古文辞学の詩文の面の代表者。

盛唐詩を広め、「唐詩選」を校訂刊行して大流行させた。 他の著書に『大東世語』『灯下書』『儀礼図抄』『十八史略』等。

江村北海は「日本詩史」において「蓋徂徠没して後、物門の学、分かれて二と偽る。経義は春台を推し、詩文は南郭を推す」。とされるように徂徠亡き後

二つの流門へと分かれていったのであった。

 

「園門下いかに多氏済々とはいえ、治国平天下の学より故事来歴の考証までを一身に兼ねる人物はもはや求めるべくもない。かくて徂徠学の分裂はまず人格的な分裂として表面化

したのである。徂徠学の公的な側面と私的な側面は園門下において夫々異なった担い手を見出すことになった。前者を代表するものに太宰春台・山県周南があり、之に対して服

部南郭・安藤東野・平野金華らはいずれも私的側面の継承者であった。後世、角田九華が、「徂徠没するに及び、その門分れて二と為る。詩文は服部南郭を推し、経術は春台を

推す」(近世叢語、巻二)と語っているのはこの間の事情を指すものにほかならぬ。(中略)けだし彼等は夫々 エピゴ-ネンにふさわしく 意識的にか無意識的にか己れの継授

した面を徂徠学それ自体として絶対化することによって、各自の領域を無視し同じ面において競合するに至るからである。

 

この食い違いは既に春台と南郭において明白に現れている。一方において春台が古文辞の弄びを「糞雑衣」と罵り、「聖人ノ道ハ、天下国家ヲ治ルヨリ外ニハ所用ナシ、・・・是捨テ学

バズシテ、徒ニ詩文著述ヲ事トシテ一生を過ス者ハ真ノ学者ニ非ズ、琴碁書画等ノ曲芸ノ輩ニ異ナルコトナシ」(経済録、巻一)と痛論しているとき、他方に於いて南郭は、近世叢語

に、「其学博しといえども深く自ら韜晦し未だかつて師儒の重きを挟まず、居恒、雅致を以て自ら居る。人或いは時事を問へば笑って曰く、文士迂闊にして事務を知らざるに々として

空談自ら喜ぶ、何ぞ人道を謀るに異ならん、故に予は敢てせず、と」(同、巻三」)とある様に政治的現実から韜晦して、ひたすら詩文を楽み、文辞の研究に没頭していたのである。し

かも春台や周南のごとく経学を継承しこれを深化して行った者は比較的少数であって、園の大勢は南郭の傾向を追って行った。