高岡の御車山祭は毎年5月1日におこなわれます。絢爛豪華な桃山文化の芸術のすばらしさを是非ご覧ください。そしてお土産には天野屋の蒲鉾はいかがですか。

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高岡御車山まつりについて
高岡は昔、関野郷といわれ、人家はまばらなところでしたが、
慶長14年(1609年)加賀二代藩主前田利長が築城してから、にわかに町づくりが行われました。
 利長は城下の楽土安民を願って地名を高岡と名付け、町の発展にいろいろな施策をとりました。
 その一つである御車山祭(みくるまやままつり)は、
太閤秀吉が後陽成天皇を京都聚楽第(じゅらくてい)にお迎えしたときの御所車、
 を、加賀藩祖前田利家公が拝受し、さらにそれを子利長公が、
新しく町づくりした高岡の10ヶ町内(7基)に与えたものです。
絢爛豪華な桃山文化を今に伝える御車山ですが、意味があるのは飾りだけではなく
 台車に大きななぞが隠されているのです。
正親町上皇(おおぎまちじょうこう)は残念ながら参加していないそうです。
 さらに京都祇園会の祭礼にならって鉾山に改造させ、
関野神社の祭礼に神輿とともに城下を奉曳(ぶえい)
させたのが今日の行事の起こりで、特に御車山といわれるのはこのような由来からです。
 御車山は御所車形式に鉾(心柱)を立てた特異なもので、その創期を明らかにし、
随時の補修は徳川期における高岡金工、漆工の技術を集め、
美術工芸の総合作品として郷土文化の価値が高く、
 藩政時代は特に加越能三カ国に類似の山車を厳禁したもので、郷土の美術工芸の代表作品です。
 昭和35年、「国指定重要有形民俗文化財」に、昭和40年、「県指定有形文化財」に、
昭和54年、「国指定重要無形民俗文化財」に指定されました。

それでは、いったい何故ゆえ高岡の町民にこの御車山を授け、引かせたのでしょうか?
 
最近高岡の歴史、利長公の立場を調べていくと  
ただ単に町興しのために高岡の町民に与えたとは、思われぬことに気づきます。  
 もともと豊臣家の五大老の一人であった利家公の跡を引き継ぎ、  
お世継ぎである「秀頼」の後見人であるべき利長公は、徳川家康の野心も  
 分かっていたのに一切逆わらず、前田家安泰の道を選びました。  
高岡城築城と同時期悪性の「瘍」をわずらったことも引き金となり、  
 前田家の家督は、義兄弟の「利常」に譲り、家康の孫で「秀忠」の娘「珠姫」を利常に娶らせ、  
徳川の大名へと変身することで豊臣家と縁を切ることとなったのです。  
 どんな権力者でも命に限りがあります。  
年長公は、其の無念さ、或いはたとえ「豊臣家」が滅亡することがあっても  
 何時の時代か分からずとも「豊臣家」を奉り、  
永遠の復権を高岡の町民に託したのではないでしょうか。  
 また、豊臣家で悲運の最期を遂げた関白「秀次」の一族の  
御霊を鎮める意味合いも込められているとの説もあります。

 
御車山を保存し、祭りを司る町内を「山町」といいます。  
 山町以外の多くの町内では、春季例大祭にあわせ「ほろ武者」を飾ります。  
この「母衣」とは、竹かごなどで膨らませた布のことで、  
 騎馬武者が背負い、後方からの弓矢をよける目的の指物のことであります。  
(高岡市博物館史料より)
戦国時代、「ほろ」を着用して、戦場を駆け巡った「母衣武者」は  
 軍団のエリート集団でした。高岡母衣武者行列の起源は、  
明らかではないそうですが、遅くとも享保元年(1716年)には確認できるそうです。  
この母衣武者行列と御車山まつりとの関係を見ていると、  
 当初は、纏(まとい)を掲げた「母衣武者」が「神輿」や「御車山」を先導し、パレードするというもので、  
 さながら「太閤秀吉」が、後陽成天皇を京都聚楽第(じゅらくてい)に、  
お迎えした当時を再現しているかのごとく、華やかなお祭りでありました。
 
これは、何を意味しているのでしょうか。  

現在のお祭り形態から想像することは難しいですが、明らかに  
 利長公の「豊臣家」に対する想いが託されているのではないかと推察いたします。  
 ちなみに前田利家は、この母衣の色は「赤色」で、「赤母衣衆」と呼ばれていました。
 

御車山は、鳳輦(ほうれん)の車であるか?
 
  そもそも鳳輦(ほうれん)とは何か?神輿とどう違うのか?  
どちらも神様のお乗りになる乗り物ですが、神輿は、どちらかといえば、(せいや、せいや)であり、  
鳳輦は(しずしず)なのだそうです。  
基本的な大きな違いとしてはお神輿は「輿」で人がかつぐもので、車などはついていません。  
ご鳳輦は「車」で(台車)で曳くものです。とありました。  
しかし車のついていないものもあったので定義を調べてみると  
輦輿というのは、屋根を乗せた輿で特に鳳凰の鳳(雄)を屋根に載せた、  
神さま(御神体・御霊代)の乗物。  
また、鳳輦は、鸞輿(らんよ)、鳳輿ともいう。神か天皇しか乗ることができない乗り物とありました。  
つまり、高岡御車山は、後陽成天皇を京都聚楽第(じゅらくてい)に、お迎えした時のパレードには使われたが、  
7基すべてが鳳輦であるかのごとき伝えるのには、少し無理があるようです。  
御所参内・聚楽第行幸図屏風に描かれている鳳輦には、確かに人が担いでいる姿が描かれていました。  
二番町の二輪の車は、太閤秀吉が乗った「牛車」の車であるといわれています。  
ちなみに先端には、秀吉の家紋である桐が付けられ、関係が深いと思われます。  

※神道学博士で、二塚白山神社宮司の高尾哲史氏によると  
天正16年(1588)4月14日後陽成帝行幸、その時の御所車が「高岡御車山」に  
高岡では御車山は鳳輦の改造とするが、「高岡御車山騒動記」の「鳳輦七壹御車ハ、関白殿下ニテ新製。  
是レ則、高岡ノ御車山トナリシナリ」を誤読?したのではないかと言うことである。
 
更に高岡御車山が、利長公が高岡城在城中、御車山を城内三ノ丸に引き入れられたということは、  
是は聚楽第行幸の再現を明らかに意識してのことであり、創始とされる慶長15年は秀吉13回忌を意識してなのか、  
或いは、慶長16年創始説とあるは、秀次の17回忌を反映してなのかいずれかはっきりしてはいないが、  
御車山の起源には、歴史の本当の奥深いものを感じるのである。高岡の歴史は奥行が深い  


 
平安絵巻に描かれている行幸図、人が担いでいるのが鳳輦である。車は付いていない?